大分県立大分舞鶴高校時代
ラグビー部で有名な進学校の大分舞鶴高校で過ごしました。
セカンドを守っていた私の後ろには、ラグビー部が練習していました。
打球がライトに飛ぶと、ラグビー部の先生から怒られていました。
そんな肩身の狭い野球部でしたが、3年の夏はシード校だった気がします。
結果は初戦の2回戦敗退でしたが、とても濃ゆい時間を過ごしました。
私は、2番か9番が定位置でこけしバットのバント職人でした
セカンドでは、常に体に当てて前に落とせば間に合うことを信じて守っていました。
今思うと、この頃の経験が、バントをなるべくしたくない、守備では足を動かすことなど
指導法にこだわっている気がします。
大分大学教育学部時代
よく思い出せませんが、高校野球の指導者を目指した受験勉強。
センター試験で思うような点が取れず、進学先は大分大学教育学部小学校教員養成課程。
小学校の先生になるための講義。最初は目的意識を持つことが難しい・・・
音楽家教育法、家庭科教育法・・・❓ 同級生より授業へのモチベーションは低かった気がします。
入学式の日に部活生の列に引き込まれ、偶然にも硬式野球部に入部決定。
監督もいない部員だけで運営している野球部でしたが、本当に楽しい4年間でした。
・意外と厳しい上下関係
・しっかりと計画された練習
・とにかく楽しい飲み会
・年一回の三経戦や合宿
思い出はたくさんありますが、とにかく野球の楽しさを感じました。
その中に、大分大学体育会の役員になったり、一人暮らしを始めたり、
濃ゆい時間を過ごした気がします。語りきれません。
肝心の大学での学習は、4年間で卒業できたのですが、高等学校の教員免許の取得の
ための単位が足りず、高等学校の臨時講師の話を受けたのに資格がないという状況になりました。
話を断るしかできず、いろんな方に不義理をしました。苦い経験です。
特に両親に迷惑をかけて、その重さは今でも、そして自分が親になって子育てをするほど
感じています。
フリーター時代
不義理をした結果、フリーター(フリーアルバイター)時代を迎えました。
居酒屋の店員、調理員、レストランの調理員などを経験しました。
働く時間帯も昼間、夜間といろいろありました。居酒屋を経営している会社からスカウト(幹部候補)
も受けました。
人生の遠回りをしたような気がしますが、
・パートで働く主婦との会話
・夜の街の恐ろしさと楽しさ
・就職氷河期に共に苦しんでいる人との時間
今思うと、自分の人生の糧にはなっている気がします。
もちろん、この時代も両親には心配をかけっぱなしですが。
そして、フリーター2年目も終わりを迎えようとしていた平成13年3月の末に一本の電話が入ります。
大分県教育委員会のなかなか偉い人からの電話でした。あまり内容は覚えていませんが、
「秘密兵器の出番だぞ。(おそらく冗談)新大分球場(現別大興産スタジアム)に行ってくれ」
意味もわからず、原付バイクで球場にいくと、高校野球の九州大会予選が開催されていました。
大分県立杵築高校の有名な監督(甲子園出場経験のあるお方)が待っていました。
どういう話をされたかは覚えていませんが、4月から非常勤講師という形で勤務して、野球のコーチを
するという内容でした。思いがけない形で教員としての生活が始まります。
大分県立杵築高校(3年間の非常勤講師時代)
非常勤講師とはいえ、初めての学校現場での生活の始まりです。1年目は、週に8時間の授業だった
ので、給料は10万円もなかった気がします。もちろんフリーター生活を2年間もしてきた私には、
貯金もなく最初は柔道部の寮で生徒達と共同生活です。通勤に使う車も父親に譲ってもらい、
風呂もトイレも生徒と共同利用でした。でも学校現場に立てるのがとにかく嬉しかった記憶が
あります。最初は専門外の世界史と現代社会の授業だったので、意味もわからず教材研究をして
いました。
野球の指導者としても1年目でした。チームは当時、明豊高校(いずれ勤務することになる)と
優勝を争うほど実力のあるチームでしたので、練習は厳しく、夏の大会まで3ヶ月ぐらいはとにかく
高校野球について行くのが精一杯でした。いきなり、大分県野球選手権で明豊に勝ち優勝、
鹿児島実業、長崎日大などの有名校との試合も多く、